卒業してしばらくは学校はなかったので、その間の休みを利用し島根のお墓に眠る父とご先祖様に卒業証書を持って里帰りしてきました。私を育ててくれた島根の松江。松江市は島根県の東部にあり、山陰地方のほぼ中央に位置します。市の西部は宍道湖の半分を取り囲み、東部は中海に面した水郷都市で、1889年に市制施行されました。かつては「松江」の城下町として発展。その後、山陰地方の中心都市として成長しました。福岡から在来線を利用し松江駅に降り立った時にはこみ上げてくるものを感じ涙したのを覚えてます。
里帰りといっても、家の事情で実家はなく墓参りにだけ帰っているようなものです。以前ご紹介させて頂いたと思いますが、父の癌の治療の為に福岡に家族みんなで転居。全面的に父を支えたいという母が父の同意の元、実家を売却し今にいたります。なので私は福岡の人間ではなく、島根の松江の人間です。
父の墓前で無事にというよりやっと卒業できた事を報告。なぜやっとか。それは父が癌で闘病している時にリハビリの学校に入学してリハビリ士になると約束したにも関わらず約束を反故にしてしまったからです。つまり退学しているのです。
少し話はそれますが、第二次大戦を軍人として戦った人たちが残した戦記物を読んでいると、「靖国で会おう」という言葉が出てきます。生きて帰れるとは思わない。死んだらお互いに靖国神社に祀られるのだから、そこで会おうというものです。大げさかもしれませんが、上記からすると私は父との約束を違えてしまったのです。とんでもない親不孝です。
「お父さん。やっと学校を卒業したよ。」
「リハビリ士にはなれんかったけど、NSとして働く免許も取得したよ。」
「本当に今まで心配をおかけしました。ごめんなさい。」
父に対して申し訳ない気持ちで一杯に。墓前の前で泣き崩れたのを今でもはっきりと覚えてます。たかが准看の資格。しかし、当時の私からするとそれがすごい価値のあるものだったかご理解して頂けると幸いです。
学校を卒業したら進路は二択です。就職か進学か。
相当、悩みましたが私は「就職」することにしました。
進学することを先生からも強く勧められましたが、一日も早くNSとして働きたかったのと学生の間働きながら支えてくれた妻に恩返ししたい気持ちが強かったので前者の選択をしたわけです。就職先は佐賀の鳥栖のプレミアムアウトレットの近くにある救急指定病院です。この病院に決めた一番の理由は妻からの「NSとして生きていくなら初めはきついとこ。外科がいい。」とアドバイスを受けたからです。初めにきついところを経験しておけばたいていのところでやっていけるからというものでした。
就職してどうだったか。これは次回に譲ろうと思います。
最後に靖国神社つながりから。戦争という極限の状況下で書かれた、愛する人々や故郷への思いが強く表れた特攻隊員の遺書をご紹介させていただきます。
①「我々は祖国を守るために一命を捧げる。私は自分の運命を悔いないが、ただ一つ、家族を残していくことだけが心残りである。妻と子が健やかに暮らしていけることを願う。」
②「父母様、至らない私をここまで育ててくださりありがとうございます。私が捧げる命が、少しでも国家の未来を明るくする助けとなることを願っています。」
③「最愛の家族へ。戦友とともに、この身を日本のために捧げます。どうか私の死を無駄にせぬよう、平和な世の中を築いてください。」
④「母上様、私は今日も元気です。心を高く持ち、国のために最善を尽くします。私の後悔はただ一つ、もっと親孝行をしたかったことです。」
⑤「妻へ、短い結婚生活だったが幸せだった。君の笑顔を思い出しながら、最後の瞬間まで勇気を持って進む。どうかこれからの人生を幸せに過ごしてほしい。」